18世紀初頭にツバキが欧州に移入され、ドイツやポルトガルで今でも花を咲かしているが、中国やインド経由で入った可能性が高く、多数の植物が直接渡ったのは江戸時代も後期になってからであった。
科学的に正確な日本の植物の情報が欧州に入っていったのは、出島のオランダ商館の医師たち(出島の三学者)の功績であるが、皮肉なことにこれらの人々は全員オランダ人ではなかった。
ドイツ人のケンペル(1651- 1716)はペルシャやインドを経由して日本をおとずれ(1690-92)、「廻国奇観」(1712年)にイチョウやツバキなどの日本の植物の精密で美しい絵を掲載した。リンネはこの著作に基づき、未見の日本の植物に学名をつけた。
リンネの高弟のツンベルク(スウェーデン人)(1743-1828)はリンネからの指示を受け日本に滞在し(1775-76)、著書「日本植物誌」(1794年)で多数の種に学名をつけ、日本の植物学の父といわれている。
有名なシーボルト(ドイツ人)(1796-1866)は1823-1829年に渡り西洋医学・科学を日本に根付かせると同時に、自由に出歩けない鎖国下の困難の中で膨大な博物学資料を収集し、当時西欧で唯一日本と交易していたオランダの貿易をより実利のあるものにしようとした。帰国後著した大冊の「日本植物誌」(1835-41)には美しく彩色された植物図版と詳細な解説が記載されているが、同時に、生きた日本の植物を多数持ち帰り、当時としては画期的な通信販売で欧州に普及させることを夢見た。彼が運んだギボウシ、スカシユリ、カノコユリ・テッセン等の植物は、不思議な運命の巡り会わせで、ベルギーをも欧州一の花の国にした。
開国後は英国人フォーチュン(1812-1880)に代表されるプラントハンターが日本を訪れ、ヤマユリやアオキ、クリンソウなどを持ち帰り、その美しさ・豪華さで欧州の園芸家に衝撃をあたえ、その庭を豊かなものにした。特にユリの球根は、その後日本の有力な輸出品目となり、カサブランカなどの優良な園芸品種の生みの親になった。
彼らの紀行文には、江戸時代の園芸がいかに世界的に洗練されていたか、一般庶民がどれほどそれを楽しんでいたか、染井や団子坂の植木村の大きさが彼らに大きな驚きを与えたかが異本同音に書かれていて興味深い。