2010年5月27日木曜日

海を渡った日本の花(7) ヤマブキ

(7) ヤマブキ(バラ科)Kerria japonica=日本の  

鎖国中の日本を最初に訪れた植物学者で、出島のオランダ商館の薬草園の担当のゲオルク・マイスターが1692年にJammavvikyとして西欧に初めて紹介した。その後、出島の3学者(ケンペル・ツンベルク・シーボルト)の全ての著書に記述されている事からも、ヤマブキは長崎で手に入れやすく、また西欧人にとって非常に珍しい植物だったことが伺われる。

1805年に生きた八重の品種を中国からイギリスに持ち込んだのは、属名に名を残すウィリアム・カー(Kerr)。繁殖のし易さからか、数年のうちに、ロンドンでは「労働者の家の庭先でも見ることのできる」ごくありふれた植物になった。この図譜の説明文では、「日本ではこの茎の髄に細かい細工と彩色をして小さく圧縮し、酒や水の中に入れると泡をだしながら美しい花鳥や人形となって浮かんでくる細工物として使われる」という、今では殆ど廃れた趣向「酒中花」に言及し、興味深い(左:Curtis(英)1810銅版手彩色)。

初期は八重の品種しか入っていなかったため、分類が困難だったが、1835年日本から入ってきた一重の品種によってバラ科に帰属された。現在では半日陰でも育ち、病害虫につよく、色よく花期の長い特性を買われ、「金貨の花Golden Guinea」の名で摩天楼の植え込みなどに利用されている。

右:Lemaire(蘭)1854 多色石版 1860年代の「八重の花と斑入りの葉とは共存しない」という理論に反するとして、当時の学会に騒がれた図版。実際は原画家が芸術的効果を狙って創作したらしい。

海を渡った日本の花(6) ナンテン

(6) ナンテン(メギ科)Nandina domestica=家庭の

日本と異なり、西欧には実を鑑賞する園芸植物が少なかった。そのためか、この図版(Curtis 1811年、英国、銅版手彩色)には、我々が正月の生け花として愛でるつややかな赤い実ではなく、リンネの分類法に重要な花が描かれている。この図の説明には、「日本の家庭の玄関や中庭に必ず植えられているが、装飾のためだけなのか、何か特別の利用法があるのかは不明」。南天と難転の語呂合わせは、欧米人には理解できなかったようである。  ケンペルが自著『廻国奇観』(1712年)に、ナンテンを漢名「南燭 Nandsjokf」、俗称を「NattenまたはNandin」として紹介した。属名はこの最後の語Nandinから来ていることは明らかである。

1804年に中国からカーがイギリスに導入。比較的短期間のうちに英国の温室では珍しくなくなったとの事。英語名は葉の形と直線的に立つ茎から「天国の竹heavenly bamboo」。あるいは、赤い丸い実から、「カニの目」。今では欧米でも繊細な葉と鮮やかな実が冬の彩となる植えこみとして珍重されているが、繁殖力の強さからか、米国フロリダ州では有害侵入植物に指定されている。

2007年11月に訪れたワシントンD.C.では、空港の外のグリーンサークルにナンテンがびっしりと植えられていたが、オレンジがかった実がまるでぶどうの房のようにたわわについていて、日本のナンテンのイメージからはかけ離れていた(右)。日本では花時が梅雨で、雨のために結実の効率が悪いが,米国には梅雨がないため、こんなに沢山の実がつくらしい。それが鳥に食べられ、拡がっていくなら、なるほど、有害侵入植物になるのだろうと合点がいった。

赤飯に葉を添えるのは、彩りだけではなく、葉の殺菌成分が腐敗を防ぐ実際的な効果がある。果実には有毒なアルカロイド(ナンジニン、ベルベリンなど)を含み、多量に摂取すると体調不良や不快になる。小鳥はこのことを学習しているので大量には食べないし、ナンテンのほうも複数の鳥に少しずつ食べられた方が、種子が広範囲に散布されるので好都合(左 今尾景年 1891年 多色木版)。また白い実には、鎮咳作用があるといわれているが、赤実でも同様の効果がある。

海を渡った日本の花(5) コウヤマキ

コウヤマキ(コウヤマキ科) Sciadopitys verticillata = 輪生の

秋篠宮・悠仁さまのお印がコウヤマキに決まった。皇族方のお印には趣のある植物が多いが、コウヤマキは一科一属一種の日本固有の高木。姿が端麗で、材が強靭なこの樹は、新宮さまにまことにふさわしい。
ツンベルクは、球果を見ていなかったので、イチイの一種と考えた(1748)が、シーボルトはその特徴から著書「日本植物誌」第二巻(1842)でSciadopitys(傘のモミの意)という独立した属を立てた。彼はこの樹木に心打たれ、「コウヤマキは日本の針葉樹の中でも最も美しいものの一つであるが、しかし最も珍しい種でもある。(中略)欧州の庭に新たな見事な彩を添えることになるであろう」と移出を試みたが、残念ながら失敗に終わった。
さらに、1860年にフォーチュンも横浜の豊顕寺に大樹を探し当て、「(もし、この樹木がイギリスの気候に耐えられるなら)イギリスの観賞用松類の目録には大きい掘り出し物である。」として、移出に努めたが、彼もそのときは成功しなかった。著書「江戸と北京」には見事な円錐形の樹姿が描かれている(左)。
1866年に横浜在住の英国人ヴェイチから、種がキュー王立植物園に送られてきてようやく、英国でも栽培されるようになったが、「その成長は非常に遅く」、左の球果のある図がカーチスのボタニカルマガジンに収載されたのはほぼ40年後の1905年であった(石版手彩色)。

コウヤマキはヒマラヤスギ、アラウカリア(ナンヨウスギ)とともに世界三大美樹の一つとして高く評価されているが、欧州では未だ稀な樹木である。

海を渡った日本の花(4) ハマナス

ハマナス(バラ科) Rosa rugosa=しわの多い(葉の)

2006年の夏、訪れたナイアガラの滝の近くの公園、冬には氷結するほど寒さ厳しい地で、咲き誇っていたのはワイン色のハマナスの花(写真)。たまたま「自然友の会(水海道)」で鹿嶋市大小志崎の天然記念物の南限自生地を訪れたばかりだったので、大リーグで活躍する日本人選手にあったように感激したものだった。 Japanese Roseとして日本を代表するこのバラを、「日本植物誌」(Flora Japonica:フロラ・ヤポニカ:1784)で最初に世界に紹介し、学名をつけたのは出島の医師ツンベルク。生きた植物を欧州に導入したのは、かのシーボルト。長崎と江戸までの道中でしか採集の機会がなかった彼らが、この北方の植物を手に入れられたのは、当時も西日本各地の庭園で多く栽培されていたからであろう。 欧州に入ったハマナスは、色濃く香り高い花と、寒さに強く、海岸でもしっかりと根を張る特性を買われて、各地に広がり、オランダでは浜辺の堤防の上に列をなして咲いている。
寒さに強いハイブリッド・ルゴサ系の祖先としてバラの改良に大きな寄与をし、花は香水の素に、赤い実は寒地では不足がちのビタミンCの補給源となっている。また、アイヌ民族は果実を生で食べたり、クロユリの鱗茎と合わせて餅のようにし、アザラシの油をつけて食べたとの事。また、北欧には自生しているとの情報もある。最近物議をかもしている「ダビンチ・コード」には、聖なる女性(イエスの妻、マグダラのマリア)の象徴としてハマナスが登場する。 また雅子皇太子妃殿下のお印であり、皇居東御苑参観記念の小箱のデザインなどに用いられている(左)。 右:E. Step(英)1894 多色石版

2010年5月5日水曜日

海を渡った日本の花(3) アジサイ

アジサイ (アジサイ科) Hydrangea macrophylla = 大きな葉の

世界への日本の植物の紹介に最も貢献した人物は、江戸末期に長崎出島のオランダ商館に医師として来たドイツ人、フォン・シーボルトである。有名な「日本植物誌」(1835)で数多くの日本の植物を美しい多色図版で紹介したばかりではなく、多くの日本の植物を生きたままオランダに持っていき、そこで馴化したうえで、当時としては珍しい通信販売で、美しい日本の花を欧州各地に根付かせようとした。
その彼が最も愛した花がアジサイ。彼が提唱した種小名オタクサは妻お滝さん(右)に因むとも言われていて,大冊の「日本植物誌」のなかでアジサイ属は大きな部分を占める。その中には長い間存在が確認できず、昭和34年ようやく六甲山中に再発見されたシチダンカ H. stellata のような、希少な種まで記載されている。

現在の種小名はツンベルクが彼の「日本植物誌」(1794)でガマズミ科に帰属した時に与えたmacrophyllum の女性形になっているが、その前はバハマのナッソー王女の娘のオルタンス・ド・ナッソーにちなんで「ホルテンシア」であった。たまたまナポレオンの義理の娘でオランダ王妃(左)がこの名前(オルタンス・ド・ボアルネ1783~1837)であったため、彼女に捧げられたと誤解され、高貴な花とされていた。 やがて、イヴット・ジローが唄ったシャンソン「アジサイ娘」のように広く愛され、改良されて、ハイドランジアや西洋アジサイの名前で日本にも色とりどりの多くの品種が輸入されている。

シーボルトも、オタクサの名前は消えても、世界中の窓辺や庭を彩る多様なアジサイの普及に満足していることだろう(左:スコットランド エジンバラ スコット記念碑 2008年9月)。

海を渡った日本の花 アオキ (追加)

大場秀章先生の「草木花ないまぜ帳」 は、数多くの植物の興味深い歴史と広い知識が得られる楽しいコラムであるので、植物に興味ある人はぜひ訪れていただきたい。ただこの連載の2001年6月 「ヤマブキ」の項での「アオキ」の西欧への導入の歴史に関する記述には疑問がある。先生はその中で「最初にアオキを欧州に導入したのはシーボルトで、しかも雄木だけだったので、実がつかず、プラントハンターが開国後に雌木を求めて来日した」とされている。

しかし、資料によれば英国に斑入りの雌木が入ったのはシーボルトより以前の1783年(Curtis: Botanical Magazine 1809)。仏国には1860頃に入ったがそれは雌木のみであった(R.ギョーら:「花の歴史」文庫クセジュ 串田訳 (1965))。ロバート・フォーチュンが開国と共に雄木を求めて来日し、横浜で得た雄木を1861年英国に導入(「幕末日本探訪記-江戸と北京」(1863) 三宅訳)。人工授粉によって真っ赤な実をつけたアオキは、1864年のケンジントンでの博覧会で大センセイションを巻き起こした(Curtis: Botanical Magazine 1865)。おかげで、雄木は雌木の100倍以上の値がつき、また受粉用の雄木の鉢植えのレンタルまであった(A.M.コーツ:「花の西洋史-花木篇」(1971) 白幡訳)。

第111回 歴史地理研究部会2008年における橘セツさん(神戸山手大学)の発表において、日本原産の植物がイギリスへトランスカルチャレーションした例としてアオキを取り上げ、上記の時系列で雌木、雄木の順で英国に導入されたとしている。従って当ブログの (2)アオキの項の記述が正しいように思われる。なお、この件についてはHPの提供元を通じて、先生に連絡をお願いした。
なお、大場先生の著作、「花の男 シーボルト(文春文庫)」「植物学と植物画(八坂書房)」「シーボルト日本植物誌<本文覚書篇>瀬倉訳(八坂書房)」はこのブログを書く上で非常に参考にさせていただいている。また、各植物の「科」は最近発表された先生の「植物分類表(アボック社)」によっている。

海を渡った日本の花(2) アオキ

アオキ(ガリア科) Aucuba japonica=日本の

江戸時代の日本の園芸は、当時の世界で一番洗練されていた。斑入りの葉を持つ変種を高く評価した事も、世界に例がなく、 英国に最初に入ったアオキも斑入りであった.出島の医師ケンペルによりAükubaとして欧州に紹介され(「廻国奇観」1712)、1784年ツンベルクの「日本植物誌」にアオキの図版が掲載され(左、東大)学名がつけられた。

1783年、ジョン・グラフィエによってイギリスに最初にもたらされたアオキは斑入りの雌木だったので、実は付かなかったものの、英国の冬に負けない、またロンドンのスモッグにも強い、つややかな色よい葉が愛でられいくつもの賞を得た。 鑑賞価値の高い赤い実をつけさせるための雄木を得る目的で、1861年の日本開国とともに英国から派遣されたのが、プラントハンターとして名高いR.フォーチュンであった。彼の「幕末日本探訪記-江戸と北京」(1863)には、横浜のフォール医師宅でこの木に巡り合った時の喜びが「深紅色の実をいっぱいに着けたこの植物が、我々の家の窓や庭を飾る情景を想像されたい。そのような結果の現れは、私がイギリスからはるばる日本に旅行しただけの価値があると思う。」と記されている。 ワォード氏の箱に大切に守られて英国に入った雄木は,高価で種苗業者に買い取られ,人工授粉によって真っ赤な実をつけたアオキは、1864年のケンジントンでの博覧会で大センセイションを巻き起こした。おかげで、雄木は雌木の100倍以上の値がつき、また受粉用の雄木の鉢植えのレンタルまであったとの事である。

カーチスのボタニカルマガジン(英)に最初に収載された図は、斑入り葉の雌木で実はなかった(上左:1809年,銅版手彩色)が、英国で初めて実のなった次年には赤い実と雄花、雌花が描かれている(上中:1865年,石版手彩色)。英国はもちろんオランダ、ドイツなどの図譜にも、実の付いた斑入り葉(上右:A.J. Wendel 蘭1876年,多色石版)や黄実のついた株が描かれて、いかに人気が高かったかが分かる。なお、属名の Aucuba は日本語の「あおきば」から来たといわれている。 今では欧米の公園には広く植えられ、しかも日本より実が美しい。これは実をいびつにし赤く色づくのを妨げるアオキミタマバエという寄生虫がいないから。